起業家精神が切り開くオーストラリアのエナジートランジションと食文化

目次

    独自の進化を遂げた街

     シドニーには特有の音がある。たとえば、信号機が視覚障碍者向けに発するププププという電子音に、街中を走るシドニーバスのキュイーンという独特の変速音。そして波の音に、夕暮れになるとけたたましく響くワライカワセミの鳴き声。一度この街で暮らしたことがある人なら、そんな音を聞くだけでこの都市を懐かしく思い起こすのではないだろうか。 

     もともと、オーストラリアという国自体、ユーラシア大陸やアメリカ大陸、アフリカ大陸から離れ、ぽつんと南半球にたたずむ大陸なのだから、生態系が他の大陸と異なるのは当然だ。こんな独特な都市の音を一つとっても、生態系と同じく社会も独自の変化を遂げてきたことが分かる。

     そしてこの国の経済構造もまたユニークだ。一番の輸出産業は資源で、鉄鉱石や石炭、石油、天然ガスを、日本をはじめとする多くの国に輸出している。もともと政治犯の流刑地だったオーストラリアが、イギリスからの独立を果たしたのも、金鉱脈の発見がきっかけだった。それだけ、この国の歴史と鉱物資源は密接にかかわっている。

     このようにオーストラリアは、この国の特徴を生かせる産業を伸ばすことで2020年まで28年連続で成長を遂げてきた。よくオーストラリア人は大らかだとよく言われるが、ある意味では他国と競争を強いられない恵まれた環境があるからこそ、そうした国民性を育めたのだろう。

    フレンドリーさの裏に潜む駆け引き

     シドニー湾に面したPark Hyattの客室からは、窓越しにオペラハウスを望める。それはまるでオペラハウスを私専用の額縁に入れたかのような特別感を与えてくれる、私にとってお気に入りのホテルだ。

     この日はPark Hyattのゲストハウスで、シドニーの投資銀行が主催する水素プロジェクトのファンクションが開かれていた。天気も良かったので、ゲストハウスのドアは開け放たれ、オペラハウスを間近に望めるようになっていた。10月も終わりに近づいてくると、夏の訪れを感じさせる海風が頬に心地よい。

     石炭や天然ガスなど豊富な地下資源で発展してきたオーストラリアだが、脱炭素の世界的な潮流に乗り遅れまいと、近年は水素に力を入れている。水素の生産拠点である水素ハブを整備し、新たな資源として輸出する構想だ。

     同様の水素ハブ構想は米国や中東、アフリカで動き出してるが、オーストラリアでは地政学的に利害が一致することの多い日本と手を組もうとしている。日豪の経済史を振り返れば、90年代に石炭で、2000年以降は天然ガスで日本企業が上流案件にマイノリティー出資をし、出資比率の数倍のオフテークアグリーメントを取るという、所謂、開発輸入で手を組んできた。そうした先人達が築いたレピュテーションはこの地で今も絶対的で、数多ある水素プロジェクトはいずれも日系のオフテイカーを取り込もうと躍起になっている。

     オーストラリア人は実に気さくで、ファンクションでは次々と「G’day」と言っては軽やかに話しかけていく。ゲストだけでなく、レストランのスタッフにまで愛想を振りまくのだから抜かりがない。ただ、私が見るところ、こんな振る舞いも計算づくで、要するに個人的に親しくならなければ必要な情報を得られないし、レストランのスタッフから良いサービスをしてもらえない故だと感じる。

     その証拠に、いつまでも笑顔を振りまいているのかというとそんなこともなくて、短時間の会話で相手を値踏みしては、「価値無し」と判断すればさっさと会話を切り上げるような振る舞いも時折見受けられる。一流のビジネスパーソンは否定的な態度は表に出さないのが品格だと教えられて育った私にとっては、そこまで露骨な態度をとらなくてもいいのに、と思ってしまうが、好意的に解釈すれば合理的な時間の使い方とも言えるだろう。郷に入れば郷に従えではないが、それがオーストラリア風の人付き合いなら、私も常に相手から値踏みされていると覚悟しながら、価値のある人間だと相手に思わせる振る舞いを心がけるしかない。

     それに私だって、結局は日本のクライアントの提携先を探しているのだ。もう少し上品な振る舞いはできていると信じたいが、何等かの評価を下しているのはお互い様なのかもしれない。Park Hyattのボールルームの優雅な空気に隠れて、参加者の脳裏ではそんな駆け引きがなされているのかなと想像すると、むしろこの場の人間模様を楽しめてしまう自分に笑えてしまったのだった。

    旺盛な起業家精神がエナジートランジションを推進する

     こうしたファンクションに参加して興味深いのは、水素構想をぶち上げるのが決して大企業だけではないことだ。日本ならば、サプライチェーンの規模の大きさゆえ、大企業でなければ手掛けられないと考えられがちだが、オーストラリアでは大企業に交じってベンチャー企業が果敢にプロジェクトを構想している。

     また、水素への注目が高まる一方で、まだ利益を生んでいる炭鉱が次々とダイベストメントされているが、その受け皿にベンチャーがファンドと組んで手を挙げているのも面白い。シドニーはIPOのしやすさや、インフラファンドの発達が相まって、一般に資金調達の環境は良いとされる。規模は小さくても、アイデアやファイナンスを駆使してチャレンジする姿勢がいかにもオーストラリアらしい。

     実はオーストラリアは開業率が14%ほどで、世界でもイギリスやドイツなどと並んで高い。水素ブームの前には、実際に再エネやカーボンクレジットの分野で多くのベンチャーが生まれ、うちいくつかは日系大手企業の出資を受けるまで育っていった。今もゴールドラッシュの時代の開拓者精神が引き継がれているのかもしれない。おおらかな国民性の割に意外に高いアントレプレナーシップと、その志を支えるシドニーの金融の力が、オーストラリアのエナジートランジションと産業の新陳代謝を支えているのである。

    ファミリー企業が作る新しいシドニーの食シーン

     ファンクションでは、一つの収穫があった。それは、水素ベンチャーの幹部であるライアンとの出会いだった。ライアンもベンチャーの経営者らしく、大風呂敷を広げる傾向はご多分に漏れないのだが、私が事業スキームやオフテイカーの顔ぶれ、ファイナンスの状況などを確認していくと、誠実に回答していく姿が印象的だった。

     彼から一通りプロジェクトの話を聞いた私は、彼をディナーに誘った。プロジェクトの中身というより、ライアンの人柄を知りたかった。構想の初期段階でいたずらにプロジェクトの実現性を詰めるよりも、交渉パートナーが信頼できる人間かどうかの見極めの方が重要だからだ。

     待ち合わせ場所はシティーにあるEstablishment Hotelの1階にあるバーにした。42mの大理石のロングテーブルを洒落たシャンデリアが照らす店内は、なんとも上品な雰囲気で、品の良さそうな若者が集う。このホテルは元々1890年にHoldsworth Macphersonという会社の事務所として建てられたが、1996年の火災により半壊した。2000年にホテルとしてリニューアルされたが、1階のEstablishment Barはシドニーのバーシーンのアイコンになっている。 

    Establishment Bar。42mの大理石製テーブルとシャンデリアが特徴的

     Establishment Barで一杯ひっかけた後は、落ち着いて食事をしたかったので、ビーチサイドへ夕食に繰り出すことにした。シドニーはビーチサイドやインナーシティーの高級住宅街に地元住民に愛される著名レストランが多い。私はSurry HillsのBar Copainsで軽く食事しながらワインを楽しもうかと思っていたのだが、ライアンが海辺に行きたいと言うので、この日はCoogee Pavilionにできた話題のレストランmimi’sに行くことにした。

     Coogeeは10年ほど前まで、地元の学生が多い庶民的なビーチだったが、Coogee Pavilionが開業してから、ずいぶんエレガントな雰囲気に変わった。mimi’sに入ると、目の前にロンドンのScott’sを彷彿とさせるフィッシュディスプレイが広がる。その奥のオープンキッチンではシェフがキビキビと動き回る。自然と料理への期待が高まる、なんとも美しい演出だ。そして窓際の席に案内されると、アーチ形の窓越しにCoogee Beachが視界に広がる。実に美しい動線設計だ。

    mimi’s (1/5) フィッシュディスプレイとオープンキッチンが食への期待感を高めてくれる

     壁や天井が白で統一された店内はややカジュアルだが、客層は上品で、歓談の声や食器のぶつかる音が程よく聞こえるのも活気を感じられて心地良い。エントリーは当然シドニーロックオイスター。メニュー構成自体はニューヨークにある高級ステーキハウスと似通っているのだが、ところどころに茶目っ気が感じられる。勧められたマッドクラブはクイーンズランド州のマングローブに生息するカニで、シェフは身を手際よくマヨネーズと混ぜ、クラブサンドウィッチをその場で作ってくれる。落ち着いて考えると高級レストランでわざわざクラブサンドウィッチを食べるのもおかしな話なのだが、ライブエンターテインメントだと思えば、それも乙なものだ。

    mimi’s (2/5) 壁や天井が白で統一された店内はややカジュアルだが解放感がある 
    mimi’s (3/5) シドニーロックオイスター
    mimi’s (4/5) Mud crabのクラブサンドウィッチ

     もともとオーストラリアの外食シーンは、お世辞にも洗練されているとは言い難いもので、かつては〇〇ホテルという名のパブで10ドルステーキを食べるのが関の山だった。因みにこの「ホテル」という独特な呼び名もゴールドラッシュの名残りの1つだ。当時は夜遅くまで酒を売ることが禁じられていたが、宿泊施設だけは例外で、宿泊者に対して食事と酒を提供できたため、酒場は簡単な宿泊施設を設けて「ホテル」と名乗り、酒を提供していたのだという。そんな法律は廃止されたが、ホテルという呼び名は今でも残っており、2000年代初頭くらいまでは実際に宿泊できるところも少なくなかった。私も駆け出しの頃は、よく10ドルステーキのお世話になったものだ。

     実はEstablishment Barもmimi’sも、地元で著名なビリオネアのHemmes家が経営するMerivaleという不動産会社が手掛けた。不動産開発からレストラン経営まで垂直統合する珍しいビジネスモデルで、歴史的建造物を改装してホスピタリティ施設を開業しては、若いシェフを招聘して話題の飲食店を次々と開いている。東京で言うところの寺田倉庫とTY Harborの関係性に近く、そういえば創業者二世ということも共通している。こうして都市の新しい食文化を、共にファミリー企業の御曹司が若い感覚を生かして創造していると考えると、実に興味深い。

    mimi’s (5/5) ステーキ

    コミュニティーと自然を愛する姿勢に共感

    ビーチサイド

     そんな洒落たレストランで、ワイン片手に互いの身の上話をすると、確実に距離が縮まっているのが分かる。聞けば、ライアンは北シドニーのビーチサイドに住んでいて、海が好きで週末はライフセービングのボランティアをしているそうだ。私も海が好きだと話すと、ちょうど翌日の土曜の朝にロックプールで水泳の練習をするので、一緒にどうかと誘われた。

     ロックプールは海辺の岩礁をくりぬいて作った海水プールで、およそ100年ほど前に雇用対策で海岸線の岩礁に数多く作られた。海水なので入った瞬間は冷たいが、慣れれば浮きやすく、岩礁によって大きな波も避けられる。ライアンは毎週、時間があれば泳ぎにくるそうだ。波の音を聞きながら泳ぐと、心が洗われるような気がするのだと言う。ベンチャー企業の経営には苦労も多いはずで、こうして何もかも忘れられる場所と時間が必要なのだろう。

     北シドニーには、いくつかロックプールがあるが、中でも私のお気に入りはNorth Curl Curl Rockpoolだ。州政府の保護区の中の岩場を通り抜けた場所にあり、周辺では唯一、清掃が入らないロックプールだ。このため、ロックプールの中には、イソギンチャクや小魚、ヒトデなどが住み着き、小さな生態系を築いている。思い返せば子供の頃、私は生物が大好きだった。泳ぎながら真下に広がる岩礁特有の生態系を観察していると、子供の頃、夏休みに磯遊びをしたことを思い出す。地元には「掃除しろ」と言っている人もいるのだが、ぜひもう少し広い心を持って、この貴重な生態系を守って欲しいものだ。


     1時間は泳いだだろうか、クタクタに疲れたので、私たちはシャワーを浴び、FreshwaterにあるPiluに社用車を飛ばした。海岸の丘の上にあるファインレストランで、開業から20年以上も色褪せずに経営を続けている老舗だ。ライブリーで都会っぽいmimi’sとは違い、エレガントな雰囲気の中で、リラックスしながら食事を楽しめる名店だ。ロックオイスターとワインを片手に、ライフセービングを始めたきっかけを聞くと、人と争うのではなく、人を救うスポーツだからだと言う。

    Pilu (1/3) エレガントな雰囲気の中で、リラックスしながら食事を楽しめる

     ベンチャー企業の経営者は他人を押しのけるような強引なタイプも少なくない。そんな中で、他人を思いやり、コミュニティーを愛するライアンの姿勢に、私は得難いものを手にしたような気がした。彼が思い描く構想の実現性はともかく、経営者としての人格やスキルは、大手企業の並の社員を上回っているのは疑いようがない。

     窓の外に目をやると、眼下に広がる海でサーファーたちが波を待っていた。ライアンは「今度は一緒にサーフィンをしよう」と、まるで夏休みの約束をする子供のように言う。遠くの波の音を聞きながら、そんな人懐っこさも良いねと密かに思ったのだった。

    オーストラリアのクリエイティビティーを感じる空間で日豪の懸け橋となることを願う

     ライアンとの週末を楽しんだ半月後、私は久々の一時帰国のためシドニーのカンタス航空ファーストクラスラウンジへ向かった。ラウンジのエントランスでは、ガーデンデザイナーのPatrick Blancが設計した壁一面のバーティカルガーデンが出迎えてくれる。ファーストクラスラウンジの内装は、日本でもよく知られるMarc Newsonが設計した。壁面は総大理石貼りで、アクセントに木材とコーポレートカラーの赤を添えている。オープンから15年以上も経つというのに、決して色褪せない美しさを保っている。

     このラウンジのもう一つの特徴は、シドニーの著名レストランRockpoolのオーナー、Neil Perryが監修した食事が提供されること。そう、シドニーでRockpoolと言えば、岩場のプールという元々の意味よりも、今やレストランの名称という認知の方が高い。それだけ岩場のプールも、レストランも、この国のアイコンとして人々に愛されているということだ。そしてこのレストランの目の前には、この国で最も長い滑走路である16R/34L滑走路が広がる。風は南から北に吹いているようで、着陸機はシドニー大学近くのニュータウンあたりから次々と現れる。タッチダウンゾーンの目の前にあるテーブルは、白煙を上げながら航空機がダイナミックに着陸する様子を眺められる特等席だ。

    Qantas Sydney First Class Lounge (4/4) Solari製のフラップ式時刻表。装飾でなく実際に稼働しているのが世界的にも珍しい。パタパタという懐かしい音を聞かせるために、フラップにはあえてガラスケースが取り付けられていない


     ちょうど朝食を食べ終えたころ、もはやこのラウンジでしか見なくなったSolari製のフラップ式時刻表がパタパタと音を立て、日本航空52便が搭乗開始間近と告げている。ラウンジの窓からは夏の訪れを告げるかのような力強い朝日が差し込んでいる。ちょうど日本は紅葉の頃だろうか。私は日豪の懸け橋になりたいと願いながら、ラウンジを後にした。

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